小浜・堅海の「かくし田」と旧堅海小学校

小浜湾の東側に大きく迫りだした内外海半島の湾に面した47戸の集落が「堅海」です。ここに「かくし田」があったと聞いて訪れました。かつて小浜藩の時代に、堅海は陸の孤島で交通は海上に頼っていました。その海岸線には松の大木がぎっしりあったことや、半島に隠れて往来する船からも見えなかった田について、小浜藩が江戸幕府に報告せず年貢の対象にしなかったことから「かくし田」と呼ばれたそうです。でも小浜藩の酒井のお殿様は確り取り立てて自分の遊興費として使っていたとのことです。大物の殿様だけにこんな荒技が出来たのでしょうか?
棚田を想像して来たのですが、小浜市街からは堅海坂トンネルも開通し、すっかり区画整理がされていて何処から何処までが「かくし田」だったのか区分がつきません。地元の方に聞いても、この辺りと言われるだけですっかり忘れられてしまったようです。ごく普通の田園風景でした。
  
そのかくし田があった付近に平成3年3月に廃校になった旧堅海小学校の木造校舎がありました。木枠の窓で現在生徒が勉強していると言われても納得できるような木のぬくもりがある校舎です。
       
校門前にはシイの大木。樹齢はどのくらいでしょうか?
  
私が6年間通学んだ中名田小学校や同深谷分校とそっくりの形でした。思わず、かくし田の事は忘れてしまいこの木造校舎に見入りました。校庭にはポンプがあって炎天下の校庭で遊んだ後に足を洗ったり、水を飲んだりした懐かしい想い出が蘇りました。
  
校舎内は市の発掘資料の物置になっています。開校は明治7年だったとか・・・・・。階段の裏にこんな言葉が書かれていました。
  
地元の方が農作業の手を止めて「かくし田」のことを教えてくださいました。結局、農民の負担は年貢でも殿の遊興費でも同じだったようです。酒井の殿様は一部でも庶民の為には使わなかったのでしょうか?
  
昔は雑巾がけを一生懸命やりました。中名田小学校や深谷分校の机や廊下、講堂の床はピッカピカで汚すなんてとんでもないことでした。きっと堅海小学校も同じだったと思います。校舎裏側です。
       
 

wakasahs15th について

カメラを通して美しい自然や日本伝統の祭りなどを楽しんでいます(^^♪
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